1983年京都に住む4歳の男の子に突如悲劇が襲った。原因不明で耳が聞こえなくなってしまったのだ。
「4歳ぐらいの子どもの耳が聞こえなくなったら、当然親は病院へ連れて行ったりしますよね。微かな記憶しかないです
けど」
結局、林田の聴力が元に戻ることはなかった。
「補聴器なしでは生活はできないですね。外すと自分の声が聞こえないので、何を話しているのか分からないし。喋ることもできないです、怖くて」
20年後、柔道整復師にあこがれていた林田は、町の接骨院で働き始めた。しかし、これが新たな試練の始まりだった。
上司は寝坊して患者を待たせたり、虫の居所が悪いと頭ごなしに怒る人だった。
「治療をすると、お前の治療は駄目だって怒られるし、挨拶してもうるさいって言って怒られるし。何が正しいのかわかんなくって毎日ビクビクしてました」
結局5年経っても理想の治療家どころか、全く成長できない自分がいた。過酷な労働時間とストレスで腹痛に悩まされる日々。
「自信も本当になかったですし、未来を感じることも、やりがいを感じることも全然なかったですね」
そんなある日上司は突然信じられない言葉を突き付けた。
「お前みたいな子どもをもって、お前の両親はかわいそうだな」
耳のことも学費のことも支え続けてくれた両親。
「泣きましたし、なんでお前にそんなん言われなあかんねん!って感じでした」
もう辞めよう、そう決心した。だが、この事件が林田を運命の渦へと引き込んでいく。
それから二か月後のある日、整骨院を開院するという男に出会った。
「その時にサンキュー代表の馬越に出会いまして、開業するから一緒にやろうと誘ってもらいました」
林田は業界を変えていきたいと語るその若き治療家に何か特別なものを感じた。
「これは本気だなと思って、その場で一緒にやらせてくださいって言いました」
三か月後、辛かった接骨院を去る日、
「僕は京都一の整骨院になりますって言って辞めてきました。馬越先生となら出来そうな気がして」
数日後、林田が入社し、馬越を含めた精鋭4人のスタッフで、整骨院はオープンした。働き始めると、普通の整骨院と
は全く違った環境に驚いた。
「前の職場では、患者様と話す内容とか教わらなかったんですけど、サンキューに入ってからは治療の内容ですとか、
こういう場合はこう話をすればいいよ、っていうのを全部教えてくれました。そしてそれが”ありがとう”っていう言葉で
患者様から返ってくるんですよね」
”ありがとう”そう言われる度、もっといい治療をしたいと夢中で学んだ。
更にサンキューでは失敗をしたり、出来ないことがあってもバカにしたり怒鳴ったりする人は1人もいなかった。
それは馬越のこんな思いに共感する人が集まっているためである。
代表:馬越「仕事に割く時間は、1日8~9時間ぐらいじゃないですか。そうなると、家族よりも多い時間を共有することになります。その時間が家族のように迎え入れられたり、コミュニケーションを取れることが大切なのではないでしょうか。だから家族と思って私たちは接するようにしてます」
信頼できる同僚は、いつしか共に夢を追いかける仲間に変わっていた。
「自分の人生を変えてくれた。毎日が楽しい。彼は私の全く色のついてないものに色をつけてくれたんです。だから私も、そういうお手伝いを出来たらと思っています」
数年後、サンキューグループはその技術力の高さが話題を呼び、気づけば店舗数は30以上に増え、京都どころか全国に広まっていった。
林田は今や幹部となり、人事担当として就職を考えている人に自分の経験を伝えている。
代表:馬越「林田先生は人が好きなので、スタッフの相談役になってくれています。私に足りない部分を全て補ってくれる先生です」
「今後柔道整復師として働く学生さんたちに、こういう職場もあるよっていうのをしっかり伝えていく中で、学生さんの目が輝く姿が見られるのは嬉しいです。
今振り返ると、前の職場があったおかげで今の自分があると思うので、前の職場にも本当に感謝してます」
4月、今年も新しい仲間たちを笑顔で迎える。
「明日朝、私が目が覚めた後に耳が聞こえるようになったらこれは奇跡ですね。でも、この奇跡は皆さんには毎日起きてます。
僕は、人には当たり前の奇跡を持っていない。でも人生を変えるほどの大切な仲間に出会えたこと、これがサンキューが僕にくれた奇跡なんです。」